わたしはエッセイを読むのが好きなのだが、作者によって違う味わい方をしていることに気が付いた。
作者が芸能人など人の前に出る仕事をしている人だったら、メディアに出ている様子からエッセイを購入する時点であらかた人物像が描けている場合が多いと思う。
そのため、芸能人のエッセイは、その人物像をさらに深部まで掘り下げることに楽しみがある。
ベースとなる人物像があって、そこに意外性や共感性が足されていく感じだ。
たとえば、わたしにとってテレビで見るオードリー若林さんは「ウィットに富んでいるけど、ちょっと卑屈なお笑いをする人」だし、エッセイの若林さんは「ウィットに富んでいて、卑屈ささえも共感や笑いに変えられるインテリジェンスがある人」だと思う。
一方、作者が小説家などの創作を生業としている人だったら、創作物を通じてしか作者を見ることができない。
つまり、直接的に作者の人物像に触れることができないので、エッセイを読んで初めて作者の人となりに対面することになる。
そこに楽しさを感じるのだ。
「あんな凄惨な作品を書くのに穏やかな人だ」という驚く場合もあるし、「作風と同じで不思議な人だ」と納得する場合もある。
後者はとくに、森見登美彦氏を指している。
最近、三浦しをん著「のっけから失礼します」を読んだ。
三浦さんのエッセイを読むのは初めてだったのだが、完全に意外性の方に傾いた。
だって、三浦さんの作品ってさわやかな風が強く吹いているから。
あんな、ベジータみたいな喋り方してると思わないじゃん。
一人称は「俺」だし、たまに人を「貴様〜!」と呼ぶ。
ベジータ様じゃん。
内容もオタクの風が強く吹いている。
オタクの妄想話が頻繁に挿入されるのだが、さすが直木賞作家。
妄想の濃度が違う。妄想が濃くてディテールが凝っている。
エッセイとは思えないページ数の中、ずっとオタク喋りが繰り広げられていく様がおもしろい。
三浦しをんさんの小説しか読んだことがない人はぜひこの一冊を楽しんでほしい。